犬山城主成瀬家
成瀬家概要
成瀬家は、三河国足助庄成瀬郷(現在の愛知県豊田市)出身で、歴代が松平氏に仕えてきました。成瀬一斎(正一)は徳川家康に仕えて伏見奉行などをつとめ、その長男である正成は幼くして家康の小姓に召し出されます。のち正成は家康の側近となり、付家老として初代尾張藩主徳川義直に付属し、元和3年(1617)に将軍徳川秀忠から犬山城を拝領しました。一斎の家督は四男の正勝が継ぎ、正成は新たに家を興して犬山成瀬家初代となります。
この後、成瀬家は9代にわたって尾張藩付家老・犬山城主をつとめ、同時に3万5000石の知行地の領主でもありました。
慶応4年(1868)正月、犬山藩が成立して成瀬家は尾張藩から独立し、9代正肥は犬山藩主となります。さらに明治2年(1869)6月には版籍奉還により犬山藩知事に任じられ、同4年7月の廃藩置県で役職を免じられました。正肥は東京に移りますが犬山との繋がりは切れることはなく、明治24年の濃尾地震をきっかけに再び犬山城主となります。
犬山城主成瀬家歴代一覧
代 | 諱 | 生年~没年 | 城主在任期間 | 出自 | 官位 | 法名 |
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初代 |
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永禄10(1567)?.26~寛永2(1625)01.17 | 元和3(1617)~寛永2(1625)01.17 | 正一長男 | 慶長12年(1607)従五位下隼人正 | 白林院殿直指宗心居士 |
二代 |
|
文禄3(1594)~寛文3(1663)05.09 | 寛永2(1625)01.17~万治2(1659)12.27 | 正成長男 | 寛永3年(1626)従五位下隼人正 | 乾龍院殿一岳宗無大居士 |
三代 |
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寛永16(1639)03.11~元禄16(1703)09.20 | 万治2(1659)12.27~元禄16(1703)09.20 | 正虎長男 | 万治2年(1659)従五位下信濃守 寛文元年(1661)隼人正 |
柏貞院殿節功良忠大居士 |
四代 |
|
延宝8(1680)06.21~寛保3(1743)08.10 | 元禄16(1703)10.26~享保17(1732)08.15 | 正親長男 | 元禄16年(1703)従五位下隼人正 | 随峯院殿実相転幽大居士 |
五代 |
|
宝永6(1709)06.29~天明5(1785)06.20 | 享保17(1732)08.15~明和5(1768)01.25 | 正幸長男 | 享保17年(1732)従五位下隼人正 明和5年(1768)内蔵頭 |
諦幻院殿泰翁宗峻大禅定門 |
六代 |
|
寛保2(1742)01.03~文政3(1820)10.18 | 明和5(1768)01.25~文化6(1809)07.29 | 正泰二男 | 宝暦8年(1758)従五位下民部少輔 宝暦12年(1762)主殿頭 明和5年(1768)隼人正 |
一珠院殿自得日慶大禅定門 |
七代 |
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天明2(1782)02.23~天保9(1838)10.27 | 文化6(1809)07.29~天保9(1838)10.27 | 正典四男 | 寛政11年(1799)従五位下主殿頭 文化6年(1809)隼人正 |
舜徳院殿泰岳道寛大居士 |
八代 |
|
文化9(1812)09.30~安政4(1857)09.19 | 天保9(1838)12.08~安政4(1857)09.19 | 正寿長男 | 文政11年(1828)従五位下主殿頭 天保9年(1838)隼人正 |
淳教院殿一貫以道大居士 |
九代 |
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天保6(1835)12.12~明治36(1903)02.04 | 安政4(1857)11.06~慶応4(1868)01 | 青山忠良三男 | 安政3年(1856)従五位下主殿頭 安政4年(1857)隼人正 元治元年(1864)従五位上 明治2年(1869)正五位 (のち正三位まで昇叙) |
興徳院殿高節英嶽大居士 |
初代 | |
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諱 |
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生年~没年 | 永禄10(1567)?.26~寛永2(1625)01.17 |
城主在任期間 | 元和3(1617)~寛永2(1625)01.17 |
出自 | 正一長男 |
官位 | 慶長12年(1607)従五位下隼人正 |
法名 | 白林院殿直指宗心居士 |
二代 | |
諱 |
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生年~没年 | 文禄3(1594)~寛文3(1663)05.09 |
城主在任期間 | 寛永2(1625)01.17~万治2(1659)12.27 |
出自 | 正成長男 |
官位 | 寛永3年(1626)従五位下隼人正 |
法名 | 乾龍院殿一岳宗無大居士 |
三代 | |
諱 |
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生年~没年 | 寛永16(1639)03.11~元禄16(1703)09.20 |
城主在任期間 | 万治2(1659)12.27~元禄16(1703)09.20 |
出自 | 正虎長男 |
官位 | 万治2年(1659)従五位下信濃守 寛文元年(1661)隼人正 |
法名 | 柏貞院殿節功良忠大居士 |
四代 | |
諱 |
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生年~没年 | 延宝8(1680)06.21~寛保3(1743)08.10 |
城主在任期間 | 元禄16(1703)10.26~享保17(1732)08.15 |
出自 | 正親長男 |
官位 | 元禄16年(1703)従五位下隼人正 |
法名 | 随峯院殿実相転幽大居士 |
五代 | |
諱 |
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生年~没年 | 宝永6(1709)06.29~天明5(1785)06.20 |
城主在任期間 | 享保17(1732)08.15~明和5(1768)01.25 |
出自 | 正幸長男 |
官位 | 享保17年(1732)従五位下隼人正 明和5年(1768)内蔵頭 |
法名 | 諦幻院殿泰翁宗峻大禅定門 |
六代 | |
諱 |
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生年~没年 | 寛保2(1742)01.03~文政3(1820)10.18 |
城主在任期間 | 明和5(1768)01.25~文化6(1809)07.29 |
出自 | 正泰次男 |
官位 | 宝暦8年(1758)従五位下民部少輔 宝暦12年(1762)主殿頭 明和5年(1768)隼人正 |
法名 | 一珠院殿自得日慶大禅定門 |
七代 | |
諱 |
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生年~没年 | 天明2(1782)02.23~天保9(1838)10.27 |
城主在任期間 | 文化6(1809)07.29~天保9(1838)10.27 |
出自 | 正典四男 |
官位 | 寛政11年(1799)従五位下主殿頭 文化6年(1809)隼人正 |
法名 | 舜徳院殿泰岳道寛大居士 |
八代 | |
諱 |
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生年~没年 | 文化9(1812)09.30~安政4(1857)09.19 |
城主在任期間 | 天保9(1838)12.08~安政4(1857)09.19 |
出自 | 正寿長男 |
官位 | 文政11年(1828)従五位下主殿頭 天保9年(1838)隼人正 |
法名 | 淳教院殿一貫以道大居士 |
九代 | |
諱 |
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生年~没年 | 天保6(1835)12.12~明治36(1903)02.04 |
城主在任期間 | 安政4(1857)11.06~慶応4(1868)01 |
出自 | 青山忠良三男 |
官位 | 安政3年(1856)従五位下主殿頭 安政4年(1857)隼人正 元治元年(1864)従五位上 明治2年(1869)正五位(のち正三位まで昇叙) |
法名 | 興徳院殿高節英嶽大居士 |
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初代 成瀬正成
永禄10年(1567)、成瀬正一の長男として三河国で誕生しました。幼い頃から徳川家康に小姓として仕え、天正12年(1584)小牧・長久手の戦いが初陣で首級を挙げました。慶長5年(1600)冬には堺の政所、その後の家康の駿府政権では年寄をつとめます。慶長15年、徳川義直(初代尾張藩主)の付家老となり、同17年から本格的に尾張藩の政務を執るようになりますが、駿府政権の年寄であることに変わりはありませんでした。元和3年(1617)徳川秀忠から犬山城を拝領し、晩年の知行高は3万石でした。寛永2年(1625)江戸で死去し、遺骨は日光山家康廟の傍らに葬られました。義直は正成の死をいたみ名古屋に東海山白林寺を建立しました。
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二代 成瀬正虎
文禄3年(1594)、正成の長男として生まれました。慶長15年(1610)に将軍徳川秀忠に召し出され小姓組に属しましたが、同19年の大坂冬の陣で家康の命によって徳川義直の陣営に加わります。夏の陣でも尾張藩の先手として出陣し、そののち父とともに尾張藩の政務に携わりました。初期の尾張藩政を担ってたいへん忙しい日をおくり、万治2年(1659)に長男正親に家督を譲って隠居。寛文3年(1663)に名古屋で死去し、白林寺に葬られました。
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三代 成瀬正親
寛永16年(1639)、正虎の長男として生まれ、万治2年(1659)に家督を継ぎました。このとき尾張藩主から5000石の加増を受け、成瀬家の知行高は3万5000石となります。
松之丸や御殿を整備し、土居に松を植え、城内に漏刻鼓を設置するなど犬山城の整備に力を注ぐとともに、城下町の惣構えを築き直し、正親の時代に城と城下町の構えはほぼ完成したといえます。元禄16年(1703)、名古屋で死去しました。 -
四代 成瀬正幸
延宝8年(1680)、正親の長男として江戸で生まれ、天和2年(1682)に名古屋に移って祖母のもとで育てられました。元禄16年(1703)に家督を継ぎます。家格の回復に取り組み、宝永2年(1705)に父の代に中絶していた将軍への献上を再開することが許されました。また、成瀬家の家臣団は正幸の時代にほぼ安定した状態となります。
享保17年(1732)に隠居して少進と改名し、寛保3年(1743)に名古屋で死去しました。 -
五代 成瀬正泰
宝永6年(1709)、四代正幸の長男として生まれ、享保10年(1725)から藩政に携わるようになります。七代尾張藩主徳川宗春が将軍吉宗の意向に逆らって隠居を命じられたときには、幕府との折衝役となるとともに新藩主を支えました。30年以上にわたる付家老在職ののち、明和5年(1768)に隠居、天明5年(1785)に名古屋で死去しました。
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六代 成瀬正典
寛保2年(1742)、正泰の次男として生まれました(長男は早逝)。明和5年(1768)に家督を継ぎ、尾張藩主家の相続・婚姻の御用を長く務めました。成瀬家に預けられていた尾張藩士が本藩に引き揚げられたため、犬山城と城下町を成瀬家の手で守る体制を作るとともに、城下の振興策も実施しています。文化6年(1809)隠居、文政3年(1820)江戸で死去しました。日蓮宗の熱心な信者であり、遺骸は江戸の修行寺(日蓮宗)に葬られました。
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七代 成瀬正寿
天明2年(1782)、正典の四男として生まれましたが、兄たちの死去などにより文化6年(1809)に家督を継ぎます。生涯のほとんどを江戸で過ごし、藩主家の婚姻・養子縁組の御用と、幕府との関係調整に力を発揮しました。家格回復にも取り組み、成瀬家を含む付家老五家の「譜代大名並」の扱いを実現させています。犬山城下に対しても、防火のための道路拡幅、犬山焼の奨励などをおこないました。天保9年(1838)、江戸で死去しました。
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八代 成瀬正住
文化9年(1812)、正寿の長男として生まれ、17歳から政務に携わり、天保9年(1838)に家督を継ぎました。尾張藩主の相続問題に関わる批判と成瀬家の家政改革のために、天保10年から約4年間、尾張藩政から身を引きます。この間に犬山と名古屋に家臣教育のための学問所を新設しました。天保14年から藩政に復帰し、安政4年(1857)に名古屋で死去しました。
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九代 成瀬正肥
天保6年(1835)、丹波篠山藩主青山忠良の三男として生まれ、安政2年(1855)に八代成瀬正住の婿養子となり、同4年に家督を継ぎました。元治元年(1864)の第一次長州出兵には首実検役を務め、戊辰戦争にも出兵しています。慶応4年(1868)正月に犬山藩主、明治2年(1869)に犬山藩知事となりますが、同4年に職務を免じられて東京に移りました。しかし犬山との縁は続いており、同24年の濃尾震災をきっかけに再び犬山城主となり、地元住民や犬山に縁故のある人たちに支えられて天守修復をなしとげました。同36年、東京で死去。