犬山城について
犬山城の略史と全容
犬山城は、16世紀中頃に織田信康(織田信長の叔父)が木之下(犬山市)から城を現地に移したのが始まりと伝えます。しかし天守の創建年代を断定できる史料はなく、諸説が唱えられています。また、天守の当初の姿については、昭和36年(1961)から同40年にかけておこなわれた昭和大修理での調査の結果、当初は二層二階だったものに増改築が加えられ、16世紀末から17世紀初め頃に今の姿になったと考えられてきました。しかし近年、天守に用いられた材木の年輪年代測定から、現存の天守は当初から今と同じ三層四階として天正18年(1590)頃に建てられたという有力な説が出されました。ただ、それ以前の建物がどのようなものだったかはわかっていません。
元和3年(1617)に成瀬正成が拝領し、江戸時代を通して成瀬家城主が9代続きました。明治時代初めには国(県)の管轄となり、明治6年(1873)に廃城と決定されます。同8年には城山全体が公園(稲置公園)となり、櫓や門などは次第に売り払われていきました。その後、明治24年の濃尾地震で犬山城天守は大被害を受け、愛知県から旧犬山藩主の成瀬正肥に修復を条件として無償譲渡されました。以後、正雄(10代)、正勝(11代)、正俊(12代)と、平成16年(2004)3月まで成瀬家が代々犬山城を所有し、平成16年4月に成瀬家から財団法人犬山城白帝文庫へ寄贈されました。
天守の建つ本丸は木曽川に面する標高約85メートルの城山の山頂にあり、天守の背後は木曽川まで落ちる断崖で、山の南側斜面を造成して大手道と曲輪が造られています。本丸からは杉之丸・桐之丸・樅之丸・松之丸と4つの曲輪が続き、ふもとには三之丸がありました。現在も残る古い建物は本丸の天守のみですが、曲輪の区画や大手道(登閣道)ルートはかつてのままで、古い石垣も残っています。天守は昭和10年(1935)に国宝に指定され、昭和27年に文化財保護法で再指定を受けました。城域は長く未指定でしたが、平成30年(2018)に本丸跡から松之丸跡などの旧城郭部分と三光寺山一帯が「犬山城跡」の名称で国の史跡に指定されました。
天守の構造
天守は高さ約24メートル(うち、石垣の高さ5メートル)で、入母屋造り二階建ての屋根の上に望楼を乗せた望楼型、地上三層四階、地下二階の構造です(屋根を数えるのが層、床を数えるのが階)。三階が入母屋屋根の中にあるため、外観は三層に見えます。
図面はすべて犬山市教育委員会発行『国宝 犬山城天守保存修理工事報告書』より
天守各階の案内
地下2階
正面石垣が天守入口で、入るとすぐに地下1階への階段があります。
地下1階
階段部以外の3面は石垣。この階までは石垣の内部です。
1階
南東と北西に付櫓があります。中央部には四室が配置され、その周囲は武者走りとなっています。四室のうち南西にある上段の間は床が一段高い畳敷で、室内には床、棚などを設けています。ここは、昭和大修理(昭和36~40年)の調査で文化(1804~18)頃に改造されたものと推定されています。
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上段の間
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武者走り
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柱に残る大鋸の跡
大鋸(二人がかりで引く長い鋸)で製材された跡。1・2階の柱には、大鋸や手斧という古い製材手法の跡が見られます。近年の調査で、4階の屋根裏(公開はしていません)にも手斧の跡が見つかりました。
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北西の付櫓と石落とし
石落としは、1階北西隅と北東隅にあります。写真は北西のもので、付櫓から張り出した部分が石落とし。この床を開いて石垣に迫った敵を攻撃します(現在は床はふさいであります)。
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桃の瓦
南東付櫓・北西付櫓(石落とし)と3階の唐破風に桃の文様がある瓦が使われており、魔除けの役割を果たします。
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南東の付櫓
右側の突き出た部分。入り口の横にあたり、正面からの敵に対して横から矢や鉄砲を射かけることができます。
2階
中央に武具の間があり、その周囲を武者走りが廻ります。武具の間の東・西・北には武具棚を設けてあります。棚からは昭和大修理で墨書銘が見つかり、延宝3年(1675)に付加されたものであることが分かりました。
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武具の間
3階
入母屋屋根の中にあり、望楼部分の下部になります。東西に入母屋破風、南北に唐破風が張り出し、内部の小部屋となっています。
4階
最上部の望楼部分にあたり、周囲を廻縁と高欄が巡ります。中央の高欄の間に絨毯が敷かれているのは、昭和大修理でこの部屋から絨毯生地の一部が発見され、もともと絨毯敷きであったと判明したことによります。
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高欄の間
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廻縁